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藤前干潟の歴史

藤前干潟の歴史

万葉集に歌われた干潟

現在熱田神宮がある場所(名古屋市熱田区)は、縄文・弥生時代は岬のようになっており、名古屋市の熱田神宮以南は海の中にありました。
7~8世紀頃、熱田神宮から木曽川河口には広大な干潟が広がっており、その頃編纂された万葉集では、「桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟潮干にけらし鶴鳴き渡る」(高市連黒人)という歌で、干潟に渡来する鳥たちの賑わいが詠まれています。「桜田の方へ鶴(白く大きな鳥の総称といわれている)が鳴いて渡っていく。あゆち潟は潮が引いたらしい。鶴が鳴いて渡っていく。」という意味の歌であり、桜田は現在の名古屋市南区元桜田町付近、あゆち潟は名古屋市熱田区あたりの干潟で、このあゆち潟は愛知県の語源になったとも云われています。
江戸時代の初めには、熱田神宮(名古屋市熱田区)のあたりから、藤前干潟から3~4km上流にある下之(しもの)一色(いっしき)(名古屋市中川区)という町まで海岸線でした。熱田神宮から桑名(三重県桑名市)までは、「七里の渡し」という東海道における唯一の海上路(船渡し)になっており、その頃の熱田神宮周辺は、宮の宿場町として非常に重要な場所になっていました。この頃まで、藤前という土地も、名古屋港も存在していませんでした。

図:江戸時代初期の海岸線
図-1 江戸時代初期の海岸線

江戸時代の新田開発

江戸時代に入り政情が安定してから、米の生産拡大のために熱田区以南の新田開発が進んできました。江戸時代初期の海岸線は東海道(現在の国道1号線)のあたりでしたが、江戸時代後期には現在の国道23号線付近まで干拓が行われていたものと考えられています。現在の藤前の土地や永徳(現在の稲永スポーツセンター(名古屋市港区)がある土地)という場所は、江戸時代末期に干拓されたようです。

図:現在の藤前干潟周辺地図
図-2 現在の藤前干潟周辺地図

干潟での漁業

現在でいう藤前干潟は、江戸時代も、広大な干潟の一部として、名古屋の漁業に貢献してきたと考えられています。名古屋では、伊勢湾台風(昭和34年)被害対策の防波堤工事が行われるまで、下之一色町が漁師町として栄えていました。この下之一色町は、織田信長の時代から漁師町として発展してきたと聞きます。この町の漁師の方々は、藤前干潟にも流れ込んでいる新川を下って、名古屋港や伊勢湾で漁をしていました。藤前干潟周辺では海苔やカキの養殖がおこなわれており、天然のハマグリやシジミの採取に加え、ウナギなどの漁も行われていました。

写真:藤前干潟のカキ養殖
写真-1 藤前干潟のカキ養殖
(提供:犬飼一夫氏)

写真:海苔漁師
写真-2 海苔漁師
(提供:犬飼一夫氏)

干潟周辺地域の近代化

明治40年に名古屋港が開港して以来、国際貿易港として数々の埋め立てが行われました。戦争中にも埋め立てが行われ、現在の稲永ビジターセンターより南には飛行場があったそうです。また、稲永スポーツセンター付近はかつて航空機の工場であり、水上機を水面に下ろすためのスロープ(永徳スリップ)は現在も遺構として残っています(写真-3)。
終戦後(昭和20年代以降)は、戦後復興と高度経済成長に伴い、名古屋港の至る所で埋め立てが行われ、木曽川河口まで続いていた干潟も次第に姿を消していきました。さらに、昭和34年には伊勢湾台風が襲来し、この地域は大規模な被害を受けました。これによって、庄内川や新川、藤前の海岸にコンクリート堤防を造ることとなり、名古屋港には防潮堤を建造することになりました。これらのことから、下之一色町の漁師は漁業権を放棄せざるを得なくなり、この地域の漁業も衰退してゆきます。
名古屋港の中で、最後まで残っていたのが藤前干潟ですが、この藤前干潟という名がついたのも、埋め立て反対運動が顕在化してきた頃でした。藤前干潟は、かつて「千鳥」という名前で呼ばれており、埋め立て計画ができた頃は、名古屋港の港湾計画に基づいた「西一区」という呼び方をされるようになりました。このように、藤前干潟の歴史は、実は非常に新しいものなのです。

写真:永徳スリップ
写真-3 永徳スリップ

干潟の埋め立てと藤前干潟の保全

この「西一区」は、昭和39年に内貿埠頭として埋め立てが計画されました。昭和56年に、この埠頭としての埋め立て計画が変更され、廃棄物処分用地として105haが埋め立てられることになりました。背景には、名古屋市の人口増加や、プラスチックの流通によるごみの増加があったためと考えられています。
昭和62年に、「名古屋港の干潟を守る連絡会」という市民団体が結成され、埋め立てに反対していきます。埋め立て計画は、平成元年に面積が縮小されましたが、平成2年には、環境庁が埋め立て計画に対し環境配慮するよう意見を出しました。平成3年には、市民団体の「藤前干潟を守る会」(名古屋港の干潟を守る連絡会から改称)が、名古屋市議会に埋め立て中止を要請し、10万人分の署名を提出しています。平成5年にも埋め立て計画の面積が46.5haに縮小されましたが、平成10年には環境庁が「藤前干潟における干潟改変に対する見解について」という報道発表を行い、藤前干潟に対する見解を発表しました。
地元自治会においても、埋め立てに関する住民投票で反対派が上回りました。平成7年に長良川河口堰のゲートが閉鎖され、平成9年に九州の諫早湾の堤防閉め切りが行われる中、ついに平成11年、「西一区」の埋め立てが中止されることとなりました。

そして現代へ

この後、名古屋市はごみ非常事態宣言を出し、埋め立てではなくごみの削減に踏み切ったのです。指定袋による分別や、事業系ごみの有料化などがされ、その後2年で約3割のごみを削減しました。
藤前干潟は、平成14年11月1日に、環境省によって国指定鳥獣保護区に指定され、同年11月18日にはラムサール条約にも登録されました。平成17年には稲永ビジターセンターと藤前活動センターが完成し、供用を開始しています。
平成22年には生物多様性条約第10回締約国会議が開催され、平成26年には「持続可能な開発のための教育(ESD)の 10 年」の最終年会合が名古屋で開催されるなど、名古屋市と市民が環境問題への取り組みを推進していく大きな契機となったのが、藤前干潟だといえるでしょう。

(参考文献)
馬場俊介「愛知の埋立‐濃尾平野南部の干拓と名古屋港築港‐」:土と基礎39-1(396)p29-36 1991年
環境省中部地方環境事務所「国指定藤前干潟鳥獣保護区マスタープラン」:2006年
浦安市郷土博物館「三角州上にできた2つの漁師町 名古屋市下之一色と浦安」:2010年