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中部地方環境事務所

アクティブ・レンジャー日記 [中部地区]

#STAYHOME 志賀高原歴史記念館

2020年05月29日
志賀高原 則武敏史

こんにちは、上信越高原国立公園の志賀高原です。

今回は「志賀高原歴史記念館」を紹介します。

もともとは、昭和12(1937)年開業、平成11(1999)年閉鎖の旧志賀高原ホテルです。志賀高原の歴史を語る建物であり「志賀高原歴史記念館」として保存されています。

この建物は建築時から建て替えられずに残っているものです。

志賀高原歴史記念館

<山小屋風の外観が特徴です。この外観は上高地帝国ホテルに似ていると感じます。>

・昭和10年に鉄道省国際観光局が、志賀、妙高、菅平一体を「上信越国際スキー場」に指定し、志賀と赤倉に国際観光ホテルを建設するとしたことにより、志賀高原ホテルが建設されました。

・閉鎖後の保存にあたり、この建物の両翼にあった宿泊棟は撤去されました。

・内部は公開されています。今シーズンは6月1日から公開とのことです。

では、志賀高原ホテルが開業した昭和12年頃の志賀高原はどんな様子だったのでしょうか。

「和合会の歴史 下巻」(財団法人和合会、1975)及び「志賀高原旅館組合誌」(志賀高原旅館組合、1997)の記述を整理しました。

・昭和5(1930)年に「志賀高原」と命名された。

・昭和10年頃はスキー場の開発(ゲレンデスキー)が始まった時期。その頃に主流のスキーは山々を巡るツアースキー(山スキー)で、志賀高原内を巡るコースのほか、志賀高原から草津温泉や志賀高原から野沢温泉へ向かう縦走コースなどいくつかのコースがあった。

・宿泊施設は、大正時代までは湯治場として発哺温泉に2軒と熊の湯に1軒が夏季のみ営業していたが、昭和10年頃からはスキー場開発に合わせて地元民、企業や大学などの施設(旅館、寮、ヒュッテ)が増え、冬季を含めた通年営業を行うようになった。

・交通は、昭和12年に麓の上林から志賀高原の丸池までの自動車道路が開通した。また、丸池まで夏季のみバスが運行開始された。

 →ということは、志賀高原ホテルの建設資材は人力か馬で運んだということ!?

また、この頃に志賀高原でスキーをするためには、自力で志賀高原まで上っていたということ!?

・何を目的に訪れていたかについては、昭和14(1939)年の入湯客数の月ごとの人数を見ると、発哺温泉では7月と8月の人数が全体の約40%を占めていた。一方で、熊の湯では12月から2月の3か月の人数が全体の約60%を占めていた。志賀高原は夏季の避暑と冬季のスキーで通年利用されていたことがうかがえる。

これらのことから、昭和10年頃は、名前がなくただの山奥であった場所が、スキー場開発やホテル建設に伴って志賀高原として一般に認知され、利用され始めた時期(スキーリゾート志賀高原の始まりの時期)だと感じました。

さて、志賀高原歴史記念館の場所は丸池の近くです。

志賀高原歴史記念館の位置

(地理院タイルのシームレス空中写真に建物の名前と池の名前を追記して作成しました。)

志賀高原歴史記念館の芝生広場

・かつて宿泊棟があった場所は芝生広場になっています。この写真の右側に最初の写真の建物があります。

・志賀高原ホテル建設にあたり、整地するのも人力だったわけです。土の山ではなく、溶岩の山なので、より労力がかかったと思います。

・なお、この芝生広場を会場にして開催予定であった「新緑のクラフトフェアin志賀高原」の今年度の開催は中止となりました。

コロナウイルス感染拡大防止のため、感染リスクを高めないような行動が各県からお願いされています。このため、志賀高原を訪れて自然を楽しんでいただくにはまだ難しいところがあります。

本事務所が属する環境省信越自然環境事務所では「#STAYHOME おうちで国立公園を楽しもう!プロジェクト」を実施しており、タイトルに「#STAYHOME」を付けて、外出しなくても国立公園を楽しんでいただくための情報発信を行っています。